
忘れてはならない記憶。街が赤く燃えた悪夢の一日・阿見大空襲
終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。
当時、阿見には海軍航空隊と予科練があり、軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。
折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せる時でした。そして午前7時37分。筑波山方面から来襲したB29の編隊により、実に500キロもの爆弾が投下され、兵舎を中心に町は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕に退避した予科練生も、低空飛行の機銃掃射により壕ごと生き埋めとなりました。
負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を、戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまった程だそうです。
この空襲により、予科練関係者281人と民間人を合わせて374名もの方々が命を落とされました。遺体は適性部隣の法泉寺で荼毘に付され、現在に至るまで供養がなされています。
先の平成の世は、戦禍を免れ得た稀有な時代でしたが、大国のエゴから始まった現在のウクライナ情勢の様に、災いはいつわき起こるかわかりません。
この阿見の大空襲は、現在では地元でもあまり大きく語られることが無くなりました。ですが、このように身近なところにも存在する戦争の記憶からその愚かしさを学び、愚行を繰り返さないことが、先達から平和な世の中を引き継いだ、私たちの使命なのではないでしょうか。
※なお、この空襲の様子は、阿見町の予科練平和祈念館の展示「窮迫」において、映像で再現されています。
予科練平和祈念館の記事はこちら→
【そして少年達は大空に散った。阿見町・予科練平和記念館】
予科練平和記念館:
所在地:茨城県稲敷郡阿見町廻戸5-1
電話:029-891-3344
公式HP→【予科練平和記念館】
阿見町:
霞ヶ浦西浦の南岸に位置し,大正11年の霞ヶ浦海軍航空隊開設により,予科練の街として知られるようになりました。現在は茨城大学,東京医科大学など学生の街となっています。
その他の記事はこちら→【阿見町】
土浦市:
霞ヶ浦西浦の西端に位置し,江戸の頃より茨城県南の要所として栄えてきました。ナショナルサイクルルート「つくば霞ヶ浦リンリンロード」の拠点となっています。
その他の記事はこちら→【土浦市】