今に伝わる報徳思想。桜川市・二宮尊徳の青木堰
以前はほとんどの小学校に設置されていた二宮尊徳像。薪を背負い歩きながら本を読むその姿は、道徳の規範とされてきました。
その二宮尊徳が建設した木製の堰が、かつて桜川市の青木地区にありました。現在は、尊徳が手掛けた場所のやや上流に、コンクリート製の堰として改修。尊徳による堰の杭材は、同市薬王寺の山門として再利用され、その遺徳を今に伝えています。
ところでこの二宮尊徳、「道徳」のイメージが強いのですが、実際の功績を知る方は、それほど多くないのではないでしょうか。
尊徳は天明7(1787)年、現在の神奈川県小田原市の裕福な農家に生まれましたが、幼少期に起きた水害で田畑のほとんどを失いました。復旧の困窮の中、父母とも若くしてこの世を去り、尊徳は16歳で伯父の元に身を寄せることになります。
当時、農民に学問は不要とされましたが、学問の重要性を幼い頃より感じていた尊徳は、農作業に励みつつ、薪を背負って歩きながら勉学に励みます。この姿がかつての小学校の銅像のモデルとなったわけです。
20歳の頃に生家に戻り、努力の末に田畑を買い戻し、家の再興を遂げます。その後小田原藩家老・服部家の使用人となるのですが、若くして家を再興した手腕を買われ、服部家の財政再建に取組むこととなり、これを成功させました。
さらにその後、現在の栃木県にある桜町領の立て直しを命じられ、数々の苦労の果てに、再興を果たします。これにより、尊徳の名は近隣に広まることとなりました。
そしてここで、話は桜川市青木地区に移ります。青木堰は、桜川の上流域にかかる堰で、一帯の貴重な水源となっていました。しかし、その場所は川が急カーブを描く場所であり、氾濫のたびに堰は流されてしまい、地域は次第に荒廃していきました。
なんとか荒廃を食い止めようと、名主の館野勘右衛門は尊徳に復興を依頼します。最初は断った尊徳も、勘右衛門の熱意に打たれ、堰の再建を指揮することとなりました。尊徳の監督により、当時の常識をはるかに上回る早さ・少ない経費で堰は完成し、その後村は豊かになったとされます。
尊徳の再建手法は「報徳思想」という、農業と経済・道徳を有機的に結び付けた、今日にも通用する(と言うよりも今日こそ必要な)経営思想に基づいたもので、この思想は「日本近代資本主義の父」渋沢栄一をはじめとする、多くの実業家に多大な影響を与えています。
尊徳の有名な言葉として「経済なき道徳は戯言、道徳なき経済は罪悪(※)」というものがあります。経済活動がかつてない速度で変化・膨張する現在。堰を前に、報徳思想に思いを馳せてみるのも良いのではないでしょうか。
※正確には、これは尊徳自身の言葉では無いそうですが、その思想を良く表すものとして紹介しました。また、そもそも「経済」とは「経世済民=世(よ)を経(をさ)め民(たみ)を済(すく)ふ」から来ており、単なる金儲けを指すのではなく、極めて道徳的観念を伴う用語です。
青木堰:
所在地:茨城県桜川市青木
※薬王寺の山門の記事はこちら→【二宮尊徳の偉業を伝える山門。桜川市・もみじの薬王寺】
桜川市:
筑波山の北麓に位置する,山と里の景色豊かな桜川市には,茨城県内唯一の重要伝統的建造物群保存地区・真壁の街並みをはじめ,歴史を感じさせる風景が多く残されています。
その他の記事はこちら→【桜川市】