忘れてはならない記憶。基地が赤く燃えた悪夢の一日・阿見大空襲
【NEWSつくば連載 日本一の湖のほとりにある街の話vol.12】
※2022年6月10付でご紹介した記事ですが、改めて同館学芸員の山下さんにお話を伺い、NEWSつくばの記事として再編しました。以下、記事になります。
終戦直前の1945年6月10日。この日は、阿見・土浦にとって決して忘れてはならない一日となりました。当時、阿見は霞ヶ浦海軍航空隊を有する軍事上の一大重要拠点でした。そのため、B29による大規模爆撃を受けることとなったのです。
当時の様子は、阿見町は予科練平和記念館の展示「窮迫」にて、関係者の方々の証言と、再現映像で見ることができます。今回はこの「阿見大空襲」について、同館学芸員の山下さんにお話を伺いました。
折悪くその日は日曜日であったため面会人も多く、賑わいを見せていたそうです。そして午前8時頃。グアム及びテニアン島から、推計約360tに及ぶ250kg爆弾を搭載した、空が暗くなるほどのB29の大編隊が飛来し、広大な基地は赤く燃え上がったと言います。付近の防空壕に退避した予科練生も、爆発により壕ごと生き埋めとなりました。
負傷者・死亡者は、家の戸板を担架代わりに、土浦市の土浦海軍航空隊適性部(現在の土浦第三高等学校の場所)へと運ばれました。4人組で1人の負傷者を運んだそうですが、ともに修練に明け暮れた仲間を戸板で運ぶ少年たちの胸中はいかばかりだったかと思うと、言葉もありません。負傷者のあまりの多さに、近隣の家々の戸板はほとんど無くなってしまった程だそうです。
展示での証言は酸鼻を極めます。当時予科練生だった男性は「友人が吹き飛ばされ、ヘルメットが脱げているように見えたが、それは飛び出てしまった脳だった。こぼれてしまった脳を戻してあげたら、何とかなるんじゃないか。そう思って唯々その脳を手で拾い上げ頭蓋に戻した」と語ります。また土浦海軍航空隊で看護婦をしていた女性は「尻が無くなった人。足がもげた人。頭だけの遺体。頭の無くなった遺体。そんな惨状が広がっていた」と話します。
この空襲により、予科練生等281人と民間人を合わせて300名以上の方々が命を落とされました。遺体は適性部と、その隣の法泉寺で荼毘に付されましたが、その数の多さから弔い終わるまで数日間を要したそうです。
先の平成の世は、戦禍を免れ得た稀有な時代でした。しかし、現在私たちの多くが当然のように享受している日常は、こうした先達の累々たる屍と、無数の慟哭の上に成り立っている事を忘れてはならないでしょう。
「予科練の歴史を通じ、平和の尊さを学んでほしい。この地でも空襲があり、その延長線上に今の我々の生がある事を感じてもらえたら」山下さんはそう語ります。この凄惨な記憶と平和の尊さを語り継ぐべく、同館は空襲のあった6月10日に毎年無料開放を実施しています。ぜひこの機会に、身近なところにも存在する戦争の記憶をご覧ください。
本記事は、NEWSつくばにて連載のコラム「日本一の湖のほとりにある街の話」第12回記事です。
元記事はこちら→《阿見町の予科練平和記念館 《日本一の湖のほとりにある街の話》12》
※予科練平和記念館の記事はこちら→
【そして少年達は大空に散った。阿見町・予科練平和記念館】
予科練平和記念館:
所在地:茨城県稲敷郡阿見町廻戸5-1
電話:029-891-3344
公式HP→【予科練平和記念館】
阿見町:
霞ヶ浦西浦の南岸に位置し,大正11年の霞ヶ浦海軍航空隊開設により,予科練の街として知られるようになりました。現在は茨城大学,東京医科大学など学生の街となっています。
その他の記事はこちら→【阿見町】
土浦市:
霞ヶ浦西浦の西端に位置し,江戸の頃より茨城県南の要所として栄えてきました。ナショナルサイクルルート「つくば霞ヶ浦リンリンロード」の拠点となっています。
その他の記事はこちら→【土浦市】